2007年01月03日
幸せを育む
親御さんの一番の願いは「子供の幸せ」だろうと思います。そこで親と子がどうすれば幸せになれるだろうかという問題について、私の生い立ちや体験を通して、私なりに考えていることをお話しますので、皆さんも一緒になって考えて頂きたいと思います。
ところで幸せというのは、いったい何でしょう。
今の日本は、国民平均的な物質的豊かさの点では世界の頂点に立ったと言えるのではないでしょうか。また世界一の長寿国です。我々が普通一番求めているのは、お金持ちになることと丈夫で長生きをすることではないでしょうか。そのような意味において、日本人は今、世界中で一番幸せを感じられるはずです。しかしながら、「心の豊かさの点では問題あり」という気がしますがいかがでしょう。
「幸せいっぱい」と感じている人がどのくらいいるのでしょうか。
私は父親を中学校1年生のときに亡くして、必死になって新聞配達をはじめとして色々なアルバイトをして大学まで卒業しました。そのアルバイトで得たお金で学費を払い、残りのお金は母親にわたしました。新聞配達は小学5年から大学の3年までの11年間続けました。新聞の集金をしていると、「坊、偉いな。」と言って、つり銭をくれた人もいました。そういったわずかなお金も母親にわたしました。
そして大学では、人より余分に単位を取るといったがめつさで頑張りました。その時余分に取った教職の単位のおかげと、子供が好きだという理由で、現在教職に就いているのです。
私が小学6年生のときのことです。私は、男5人と女1人の6人兄弟の下から2番目の4男ですが、5男の弟と出かけたときの事です。その帰り道で、弟が「おにいちゃん、ジュースを買って飲もう。」と言いました。ところが私は「家に帰ったら、かあちゃんがきっと冷たいお茶を冷やして待っていてくれるから、そんなものは買わないで早く家へ帰ろう。」と言って、ジュースを買いませんでした。このことを弟が母親に訴えたのです。
私はずいぶん昔の話で忘れてしまっていましたが、母親がよく思い出話で語ってくれました。そのときは私に何も言わなかったけれど、涙を流して私の後ろ姿を拝んだんだよとも教えてくれました。近年母親はこの世を去りましたが、母親の魂は、私の心の中にも、私の子供達の態度の中にも生き続けていると思っています。
今度は15年ほど前の私の体験の話です。
大好きな知り合いの人が、リンパ癌という恐ろしい病気になりました。お医者さんは、長くて3ヶ月の命だといいます。私はなんとかして治らないものかと考えました。そして神頼みをしてみたんです。医者から見放された恐ろしい病気なので、神様にお願いをして治してもらうにはちょっとやそっとのことではだめだと感じました。
それでまず大好きなタバコをやめてみました。「タバコはからだに悪いからやめたい」と思っている人でもなかなかやめられないのがタバコですね。でも私はこのときのおかげでタバコをやめることができたと、今では喜んでいるんです。
しかしこんなことではリンパ癌は治りませんでした。そこで今度は丸坊主にしてみました。まわりの人は「どうしたの。」といって心配をしてくれましたが、理由は話しませんでした。
つぎに三日間の断食をしてみました。三日間だけ食べ物を食べないようにしたのです。一日で腹が減って腹が減って仕方がありませんでした。二日目には道端のやわらかそうな草を見て、草でもいいから洗って食べたいと思ったくらいです。でもついに三日間がんばりとおしました。
そして3日目の最後の食事を我慢したとき、どこかでかかっているラジオのニュースが柔らかく耳に入ってきました。一瞬ハッとしました。自分は耳が聞こえるんだということを強烈に感じたんです。
その一秒後に今度は蛍光灯の光が目に入ってきました。その光の美しく感じたことといったら、たとえようがありません。そのとき私は生まれて初めて目が見えるということを感じたのです。自分にはこんなにも健康なからだがあるという喜びで、涙がつぎからつぎへと流れてきました。
その断食の後、一度にご飯を食べたらお腹をこわすので、お粥にして食べたのですが、そのお粥のおいしかったことといったらありません。あのときのお粥ほどおいしいご馳走にはいまだにお目にかかったことはありません。
だからとことんお腹がすいてさえいればおいしくいただけるんですね。毎日ご馳走を食べることができる人が幸せではなくて、粗末なものでもおいしく感じて食べられる人が幸せなんだと思いました。皆さんどう思いますか。
ところでリンパ癌の人はどうなったでしょう。普通癌になればやせてくるのですが、この人は太ってきたので医者も驚きました。治ってきたんですね。
ところが安心していたら、3年後に急にまた悪くなって、なくなってしまいました。
私も、ときには喜べない日もあります。そのようなときは、このとき流した健康の喜びの涙を思い出すようにしています。
私の妻は、毎日つばめが舞うように立ち働いてくれています。私には過ぎた妻だと思っています。中でもありがたいと思っていることは、子供達に対して、私を尊敬するように陰の役者を演じてくれていることです。
このようなわけで私は今とても幸せを感じています。
ここで不幸せだなと思われる例をあげてみましょう。次のような家庭があったとしましょう。
奥さんが嘆いています。「うちの旦那は隣と比べると情けない。隣はたくさん給料をもらってくるのに、うちは子供にうまい菓子も買ってやることもできない。新しい服も買ってやれないし、わたしの毛皮のコートなんて買えやしない。仕事で遅くなるといってマージャンをやってくる。つきあいだからといってお酒を飲んでくる。お酒を飲んだ後は何をやってくるか分からない。ああ悔しい。」というような気持ちで旦那さんを見ていると、表面には出さないつもりでも、子供は旦那さんを軽蔑するようになると思います。最近はこんな家庭が多くなったのではないでしょうか。だから、むかしだったら「地震、雷、火事、親父」といわれたように、親父は恐かったのだけれど、今は恐がるよりもむしろ馬鹿にしているようなところもあるようです。だから家庭内暴力などという言葉ができたのだと思います。
だから、子供を良くする基本は、「夫婦円満」にあるといえると思うのです。家で夫婦が仲良くしていたら、その姿を見ている子供は満ちあふれた愛情に包まれて、良い子に育つはずです。子供がどのくらい学校で気を使っているか知っていますか。長い時間たくさんのヒトとうまくつきあわないといけないのだから、そりゃあ気を使っているのですよ。それで家へ帰って、もし両親が喧嘩をやっていたら、誰だってもう家には帰りたくないと思うでしょう。反対に「夫婦円満」の家庭なら、安心でき、気が休まるでしょう。家出をする子の家は、先ず夫婦が喧嘩をやっていますよ。例え外見上は金銭的に恵まれていても、夫婦が喧嘩をやっていたり、お嫁さんとお姑さんが喧嘩をやっていては、地獄のような世界だといえるでしょう。
数年前のテレビのある教育番組の内容をお話します。アメリカ合衆国のハーバード大学の入学試験を紹介していました。ハーバード大学というのは名門校で、あのケネディ大統領を初めとして、ノーベル賞授賞者やたくさんの有名人を世に送り出している大学です。
ハーバード大学は、学力検査だけではなくて、芸術の才能や、課外活動の実績などを評価する。特に指導力や地域への貢献をする、人物面を重要視する。だからケネディは、学力が中の下であまり良い方ではなかったけれど、ハーバード大学の入試部の人たちが面接試験をしたら、「これは人物だ。」ということになって、太鼓判合格となったのです。
ところが学力がきわめて優秀な少女が不合格となりました。その子の高校での学業成績は、学校で2番の成績であり、推薦度は「私がいままで出会った中で最高の生徒である。」というように申し分のない評価であった。ところが、大学側はどの様に評価したかというと、「入学は疑問である。」ということで、日本なら文句なしで合格となるところであろうが、不合格となった。なぜならば、「彼女は自分の全エネルギーと時間を勉強に使って良い成績を取った。しかし学校は母親が送り迎えをしていたといい、社交や課外活動にもあまり熱心ではなかった。非常に良い子供だが、ハーバードの複雑な共同社会では対応していけないと思うから駄目だ。」ということで不合格にしたというのです。
そして最後に結んでいました。「受験競争が1つの、勉強をするための活力を作った。」そのように言う人もいるけれど、マイナス面が非常に大きく出てきているのではないか。偏差値中心の、相対評価の成績中心の社会が、成績中心の人間を作ってしまった。だからその結果、創造力とか個性を失った子供とか、無気力で画一化された子供とか、自分のことしか考えることが出来ない子供を作ってしまったのではないだろうか。」というのです。まさにその通りだと思います。
私が高校3年生の時のことです。とても二まいめでスポーツ万能で学力優秀で、おまけにお金持ちの友達がいました。姉と2人兄弟だと聞いていました。その人はテニスがすばらしく上手だったので、大学へ無試験の推薦入学が決まっていたのです。だから何も申し分のないはずなのに、高校3年の3学期だというのに、北海道の山奥の山小屋で、手首を切って死んでしまったのです。好きだった子の名前だけハンカチに書き残して、自殺をしてしまったのです。この彼女とも同じ学校だったので、私はよく知っています。スポーツ焼けしてなかなかの美人だったのを覚えています。
「幸せ」を考える上で色々と話をしてきましたが、「勉強だけできればよい」という考えだけは間違っているということはお分かりいただけたと思います。
だから私の考えている 「幸せな子」と言うのは、次のような子のことです。
先ず第一に、「生命の貴さを知っている子」です。そんな子が公園にたむろしている浮浪者を、ゲームのつもりで蹴ったりして殺してしまう、というようなことをするでしょうか。きっとやらないと思うのです。あるいは火遊びが過ぎて、妊娠してしまって困ったあげく、ビニール袋に我が子を産み落とし、コインロッカーにほうり込んで捨ててしまうというような恐ろしいことが出来るでしょうか。
ヒトの生命というものは、もの凄く神秘的で貴いものだと思っています。この地球上で、30数億年前に自然発生的に誕生した単細胞生物が、約9億年前に優性生殖を始めた。そして多細胞生物になり、虫、鳥、畜類、猿からヒトへと爆発的な進化をしてきた。その30数億年の生命の歴史が、たった十月十日の間に、お母さんのお腹の中で再現されるのです。
元はお母さんの卵子と、お父さんのたった一滴の中の精子とが、正に奇跡としか言いようのない偶然性で結ばれて、1つの受精卵になる。その受精卵が細胞分裂を繰り返して多細胞になり、各々の細胞の集まりごとに変化して、背骨になり、心臓になり、脳になり、一人の赤ちゃんが誕生するわけです。これを「個体発生は系統発生を繰り返す」といいます。このような生命を尊い生命と言わないでいられるでしょうか。だから私はいつも生徒に「生命の話」を真剣に話します。
それから第2に、「物を大切にする子」です。しかしこれは難しいですよ。特に物差しとか、鉛筆とか消しゴムとかいうのは、よく落ちたままになっているのです。このように今の子は物を大切にしません。どうしてでしょう。それは、きっとまた買ってもらえるからだと思います。また買えるからでしょう。だから、いつでも自由にいろいろなものが手にはいるという恵まれすぎの状態は、逆に不幸なんですね。
以前に保育器で育てられていた赤ちゃんの目が見えなくなったニュースを聞いたことがあります。酸素の量の管理が悪かったというので裁判となりました。保育器に送り込む酸素の量が少し多過ぎたというのです。酸素の量が多くなると、水が過酸化水素というものになります。これはオキシフルともいいます。だから脱水症状を起こして目が見えなくなってしまったわけです。我々に必要な酸素だけれど、多過ぎると大変なことになるのです。
だから天然自然の原理がここにあるのではないだろうかと思うのです。子供も、我々大人も、物が恵まれ過ぎると、何も無いときには大喜びできたものが、少しも喜べなくなってしまう。だから私たちも含めて子どもにも、
ものを豊富に与えないように,又がまんをさせなければならない
と思うのです。
我が家はいまだによそからもらったお古の机ばかりが置いてあります。その1つ目は私の弟が使っていたというくらい古い机です。それをもらってきて、長い間私の長男が使っていました。
2番目の子が学校に行くようになって、「私も机が欲しい。買って。」と言いました。ところが「またその内にもらえるから。」といって我慢をさせました。そうしたらその次の日に、実際に引っ越すヒトが、「邪魔だから。」といって、下さったのです。私も少し驚きましたが、その子の方がもっと驚いて、「本当だね。お父さんの言うこと本当だね。」と言って、それからは益々尊敬をしてくれています。
そして3つ目は隣のヒトが「子供が大きくなったから。」ということで、またまた下さったのです。この机はとても立派な机で、長男のものとし、末っ子には長男が使っていた一番古いのを使わせています。末っ子はわがままで、もんくを言いましたが、「これでも喜んで使っていると、もっと立派なものが使えるようになるんだよ。」と言い聞かせました。
それから第3に、「親を尊敬する子」です。私たちは子どもから尊敬してもらえるように全力を尽くさなくてはならないと思います。できれば何も言わないで、
自然に尊敬されるようになったら最高です。尊敬されない場合は、親が惨めなだけでなく、子供が一番惨めな思いをするようになってしまうと思います。
このことをよく考えてみれば、お父さんやお母さんのお父さんやお母さん、そう、おじいさんやおばあさんを尊敬する態度がいかに大切かがわかると思います。おじいさんやおばあさんを大切にするお父さんやお母さんの姿を見て育った子どもは、両親を大切にすると言われています。反対の場合はきっと親に苦労をかけるだろうし、粗末にあつかわれるだろうと思っています。おじいさんやおばあさんは「根」、親は「幹」、子どもは「枝葉」でしょうか。「根」が枯れれば「幹」や「枝葉」は枯れる道理です。「根」に肥料をやりましょう。そうすれば「幹」や「枝葉」は栄えると思います。
ところで幸せというのは、いったい何でしょう。
今の日本は、国民平均的な物質的豊かさの点では世界の頂点に立ったと言えるのではないでしょうか。また世界一の長寿国です。我々が普通一番求めているのは、お金持ちになることと丈夫で長生きをすることではないでしょうか。そのような意味において、日本人は今、世界中で一番幸せを感じられるはずです。しかしながら、「心の豊かさの点では問題あり」という気がしますがいかがでしょう。
「幸せいっぱい」と感じている人がどのくらいいるのでしょうか。
私は父親を中学校1年生のときに亡くして、必死になって新聞配達をはじめとして色々なアルバイトをして大学まで卒業しました。そのアルバイトで得たお金で学費を払い、残りのお金は母親にわたしました。新聞配達は小学5年から大学の3年までの11年間続けました。新聞の集金をしていると、「坊、偉いな。」と言って、つり銭をくれた人もいました。そういったわずかなお金も母親にわたしました。
そして大学では、人より余分に単位を取るといったがめつさで頑張りました。その時余分に取った教職の単位のおかげと、子供が好きだという理由で、現在教職に就いているのです。
私が小学6年生のときのことです。私は、男5人と女1人の6人兄弟の下から2番目の4男ですが、5男の弟と出かけたときの事です。その帰り道で、弟が「おにいちゃん、ジュースを買って飲もう。」と言いました。ところが私は「家に帰ったら、かあちゃんがきっと冷たいお茶を冷やして待っていてくれるから、そんなものは買わないで早く家へ帰ろう。」と言って、ジュースを買いませんでした。このことを弟が母親に訴えたのです。
私はずいぶん昔の話で忘れてしまっていましたが、母親がよく思い出話で語ってくれました。そのときは私に何も言わなかったけれど、涙を流して私の後ろ姿を拝んだんだよとも教えてくれました。近年母親はこの世を去りましたが、母親の魂は、私の心の中にも、私の子供達の態度の中にも生き続けていると思っています。
今度は15年ほど前の私の体験の話です。
大好きな知り合いの人が、リンパ癌という恐ろしい病気になりました。お医者さんは、長くて3ヶ月の命だといいます。私はなんとかして治らないものかと考えました。そして神頼みをしてみたんです。医者から見放された恐ろしい病気なので、神様にお願いをして治してもらうにはちょっとやそっとのことではだめだと感じました。
それでまず大好きなタバコをやめてみました。「タバコはからだに悪いからやめたい」と思っている人でもなかなかやめられないのがタバコですね。でも私はこのときのおかげでタバコをやめることができたと、今では喜んでいるんです。
しかしこんなことではリンパ癌は治りませんでした。そこで今度は丸坊主にしてみました。まわりの人は「どうしたの。」といって心配をしてくれましたが、理由は話しませんでした。
つぎに三日間の断食をしてみました。三日間だけ食べ物を食べないようにしたのです。一日で腹が減って腹が減って仕方がありませんでした。二日目には道端のやわらかそうな草を見て、草でもいいから洗って食べたいと思ったくらいです。でもついに三日間がんばりとおしました。
そして3日目の最後の食事を我慢したとき、どこかでかかっているラジオのニュースが柔らかく耳に入ってきました。一瞬ハッとしました。自分は耳が聞こえるんだということを強烈に感じたんです。
その一秒後に今度は蛍光灯の光が目に入ってきました。その光の美しく感じたことといったら、たとえようがありません。そのとき私は生まれて初めて目が見えるということを感じたのです。自分にはこんなにも健康なからだがあるという喜びで、涙がつぎからつぎへと流れてきました。
その断食の後、一度にご飯を食べたらお腹をこわすので、お粥にして食べたのですが、そのお粥のおいしかったことといったらありません。あのときのお粥ほどおいしいご馳走にはいまだにお目にかかったことはありません。
だからとことんお腹がすいてさえいればおいしくいただけるんですね。毎日ご馳走を食べることができる人が幸せではなくて、粗末なものでもおいしく感じて食べられる人が幸せなんだと思いました。皆さんどう思いますか。
ところでリンパ癌の人はどうなったでしょう。普通癌になればやせてくるのですが、この人は太ってきたので医者も驚きました。治ってきたんですね。
ところが安心していたら、3年後に急にまた悪くなって、なくなってしまいました。
私も、ときには喜べない日もあります。そのようなときは、このとき流した健康の喜びの涙を思い出すようにしています。
私の妻は、毎日つばめが舞うように立ち働いてくれています。私には過ぎた妻だと思っています。中でもありがたいと思っていることは、子供達に対して、私を尊敬するように陰の役者を演じてくれていることです。
このようなわけで私は今とても幸せを感じています。
ここで不幸せだなと思われる例をあげてみましょう。次のような家庭があったとしましょう。
奥さんが嘆いています。「うちの旦那は隣と比べると情けない。隣はたくさん給料をもらってくるのに、うちは子供にうまい菓子も買ってやることもできない。新しい服も買ってやれないし、わたしの毛皮のコートなんて買えやしない。仕事で遅くなるといってマージャンをやってくる。つきあいだからといってお酒を飲んでくる。お酒を飲んだ後は何をやってくるか分からない。ああ悔しい。」というような気持ちで旦那さんを見ていると、表面には出さないつもりでも、子供は旦那さんを軽蔑するようになると思います。最近はこんな家庭が多くなったのではないでしょうか。だから、むかしだったら「地震、雷、火事、親父」といわれたように、親父は恐かったのだけれど、今は恐がるよりもむしろ馬鹿にしているようなところもあるようです。だから家庭内暴力などという言葉ができたのだと思います。
だから、子供を良くする基本は、「夫婦円満」にあるといえると思うのです。家で夫婦が仲良くしていたら、その姿を見ている子供は満ちあふれた愛情に包まれて、良い子に育つはずです。子供がどのくらい学校で気を使っているか知っていますか。長い時間たくさんのヒトとうまくつきあわないといけないのだから、そりゃあ気を使っているのですよ。それで家へ帰って、もし両親が喧嘩をやっていたら、誰だってもう家には帰りたくないと思うでしょう。反対に「夫婦円満」の家庭なら、安心でき、気が休まるでしょう。家出をする子の家は、先ず夫婦が喧嘩をやっていますよ。例え外見上は金銭的に恵まれていても、夫婦が喧嘩をやっていたり、お嫁さんとお姑さんが喧嘩をやっていては、地獄のような世界だといえるでしょう。
数年前のテレビのある教育番組の内容をお話します。アメリカ合衆国のハーバード大学の入学試験を紹介していました。ハーバード大学というのは名門校で、あのケネディ大統領を初めとして、ノーベル賞授賞者やたくさんの有名人を世に送り出している大学です。
ハーバード大学は、学力検査だけではなくて、芸術の才能や、課外活動の実績などを評価する。特に指導力や地域への貢献をする、人物面を重要視する。だからケネディは、学力が中の下であまり良い方ではなかったけれど、ハーバード大学の入試部の人たちが面接試験をしたら、「これは人物だ。」ということになって、太鼓判合格となったのです。
ところが学力がきわめて優秀な少女が不合格となりました。その子の高校での学業成績は、学校で2番の成績であり、推薦度は「私がいままで出会った中で最高の生徒である。」というように申し分のない評価であった。ところが、大学側はどの様に評価したかというと、「入学は疑問である。」ということで、日本なら文句なしで合格となるところであろうが、不合格となった。なぜならば、「彼女は自分の全エネルギーと時間を勉強に使って良い成績を取った。しかし学校は母親が送り迎えをしていたといい、社交や課外活動にもあまり熱心ではなかった。非常に良い子供だが、ハーバードの複雑な共同社会では対応していけないと思うから駄目だ。」ということで不合格にしたというのです。
そして最後に結んでいました。「受験競争が1つの、勉強をするための活力を作った。」そのように言う人もいるけれど、マイナス面が非常に大きく出てきているのではないか。偏差値中心の、相対評価の成績中心の社会が、成績中心の人間を作ってしまった。だからその結果、創造力とか個性を失った子供とか、無気力で画一化された子供とか、自分のことしか考えることが出来ない子供を作ってしまったのではないだろうか。」というのです。まさにその通りだと思います。
私が高校3年生の時のことです。とても二まいめでスポーツ万能で学力優秀で、おまけにお金持ちの友達がいました。姉と2人兄弟だと聞いていました。その人はテニスがすばらしく上手だったので、大学へ無試験の推薦入学が決まっていたのです。だから何も申し分のないはずなのに、高校3年の3学期だというのに、北海道の山奥の山小屋で、手首を切って死んでしまったのです。好きだった子の名前だけハンカチに書き残して、自殺をしてしまったのです。この彼女とも同じ学校だったので、私はよく知っています。スポーツ焼けしてなかなかの美人だったのを覚えています。
「幸せ」を考える上で色々と話をしてきましたが、「勉強だけできればよい」という考えだけは間違っているということはお分かりいただけたと思います。
だから私の考えている 「幸せな子」と言うのは、次のような子のことです。
先ず第一に、「生命の貴さを知っている子」です。そんな子が公園にたむろしている浮浪者を、ゲームのつもりで蹴ったりして殺してしまう、というようなことをするでしょうか。きっとやらないと思うのです。あるいは火遊びが過ぎて、妊娠してしまって困ったあげく、ビニール袋に我が子を産み落とし、コインロッカーにほうり込んで捨ててしまうというような恐ろしいことが出来るでしょうか。
ヒトの生命というものは、もの凄く神秘的で貴いものだと思っています。この地球上で、30数億年前に自然発生的に誕生した単細胞生物が、約9億年前に優性生殖を始めた。そして多細胞生物になり、虫、鳥、畜類、猿からヒトへと爆発的な進化をしてきた。その30数億年の生命の歴史が、たった十月十日の間に、お母さんのお腹の中で再現されるのです。
元はお母さんの卵子と、お父さんのたった一滴の中の精子とが、正に奇跡としか言いようのない偶然性で結ばれて、1つの受精卵になる。その受精卵が細胞分裂を繰り返して多細胞になり、各々の細胞の集まりごとに変化して、背骨になり、心臓になり、脳になり、一人の赤ちゃんが誕生するわけです。これを「個体発生は系統発生を繰り返す」といいます。このような生命を尊い生命と言わないでいられるでしょうか。だから私はいつも生徒に「生命の話」を真剣に話します。
それから第2に、「物を大切にする子」です。しかしこれは難しいですよ。特に物差しとか、鉛筆とか消しゴムとかいうのは、よく落ちたままになっているのです。このように今の子は物を大切にしません。どうしてでしょう。それは、きっとまた買ってもらえるからだと思います。また買えるからでしょう。だから、いつでも自由にいろいろなものが手にはいるという恵まれすぎの状態は、逆に不幸なんですね。
以前に保育器で育てられていた赤ちゃんの目が見えなくなったニュースを聞いたことがあります。酸素の量の管理が悪かったというので裁判となりました。保育器に送り込む酸素の量が少し多過ぎたというのです。酸素の量が多くなると、水が過酸化水素というものになります。これはオキシフルともいいます。だから脱水症状を起こして目が見えなくなってしまったわけです。我々に必要な酸素だけれど、多過ぎると大変なことになるのです。
だから天然自然の原理がここにあるのではないだろうかと思うのです。子供も、我々大人も、物が恵まれ過ぎると、何も無いときには大喜びできたものが、少しも喜べなくなってしまう。だから私たちも含めて子どもにも、
ものを豊富に与えないように,又がまんをさせなければならない
と思うのです。
我が家はいまだによそからもらったお古の机ばかりが置いてあります。その1つ目は私の弟が使っていたというくらい古い机です。それをもらってきて、長い間私の長男が使っていました。
2番目の子が学校に行くようになって、「私も机が欲しい。買って。」と言いました。ところが「またその内にもらえるから。」といって我慢をさせました。そうしたらその次の日に、実際に引っ越すヒトが、「邪魔だから。」といって、下さったのです。私も少し驚きましたが、その子の方がもっと驚いて、「本当だね。お父さんの言うこと本当だね。」と言って、それからは益々尊敬をしてくれています。
そして3つ目は隣のヒトが「子供が大きくなったから。」ということで、またまた下さったのです。この机はとても立派な机で、長男のものとし、末っ子には長男が使っていた一番古いのを使わせています。末っ子はわがままで、もんくを言いましたが、「これでも喜んで使っていると、もっと立派なものが使えるようになるんだよ。」と言い聞かせました。
それから第3に、「親を尊敬する子」です。私たちは子どもから尊敬してもらえるように全力を尽くさなくてはならないと思います。できれば何も言わないで、
自然に尊敬されるようになったら最高です。尊敬されない場合は、親が惨めなだけでなく、子供が一番惨めな思いをするようになってしまうと思います。
このことをよく考えてみれば、お父さんやお母さんのお父さんやお母さん、そう、おじいさんやおばあさんを尊敬する態度がいかに大切かがわかると思います。おじいさんやおばあさんを大切にするお父さんやお母さんの姿を見て育った子どもは、両親を大切にすると言われています。反対の場合はきっと親に苦労をかけるだろうし、粗末にあつかわれるだろうと思っています。おじいさんやおばあさんは「根」、親は「幹」、子どもは「枝葉」でしょうか。「根」が枯れれば「幹」や「枝葉」は枯れる道理です。「根」に肥料をやりましょう。そうすれば「幹」や「枝葉」は栄えると思います。